元号 |
内容 |
天正13年
(1584年) |
この年まで、流鏑馬や駆け馬の形式で行われてたものと思われる。 |
天正14年
(1585年) |
豊臣秀吉の紀州征伐により、湯川城(亀山城)が落城。同時に祭が中絶状態となる。 |
寛永19年
(1642年) |
御坊町古寺内に住む「六左衛門」という者に神が宿り、「すぐさま祭を行え」との御神託を受け、 とりあえず祭りが再開される。 |
寛文年間
(1660年代) |
薗村より濱之瀬に住民が移住し、「濱之瀬」地区が誕生する。 |
延宝6年
(1678年) |
神社遷宮。元宮より現在の地に遷り、この頃より現行の形の祭が始まったものと見られる。
この時の氏子組は現在の「中組」「濱之瀬組」「御坊町」「上組」だったと推測される。
ただし、当時は現在の組より更に細分化されていた。(例えば、中組は「新町」「下野」に分かれている。) |
天明4年
(1784年) |
和歌山藩主の徳川治貞より戯瓢踊に対し「四恩状」が下賜される。 |
天保6年
(1836年) |
今も残る新町の古文書である「御坊新町組祭礼定書」が作られる。 |
江戸期 |
御坊町が紀小竹組に指導し、紀小竹組が新たに祭礼に参加。また下組も参加。 |
この時、「中組」「濱之瀬組」「紀小竹組」「下組」「御坊町」「上組」であったと思われる。
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明治6年
(1873年) |
太陽暦に改暦。この年より8月15日に行われていた祭を10月1日、2日と変更する。 |
明治期 |
紀小竹組が祭礼より離脱し、「中組」「濱之瀬組」「下組」「御坊町」「上組」の順となる。 |
明治22年
(1889年) |
薗村、御坊村、島村が合併し、「御坊町」が誕生。この年より薗祭が御坊祭と改名される。 |
明治42年
(1909年) |
神社合祀。「船附大明神」「春日大明神」が小竹八幡宮と合祀される。 |
明治末期 |
紀小竹組が復活。また、名屋組が小竹八幡宮の祭礼に参加する。 |
この時、「中組」「濱之瀬組」「下組」「御坊町」「紀小竹組」「名屋組」「上組」の順となる。 |
大正初期 |
東薗組が四つ太鼓を製造するが、祭礼に参加せず地下で押されていた。 |
大正6年
(1917年) |
東薗組の宿老が明治初期の小竹八幡宮氏子札を発見。東薗組が初めて祭礼に参加する。 |
この時、「中組」「濱之瀬組」「下組」「御坊町」「紀小竹組」「名屋組」「東薗組」「上組」の順となる。 |
大正末期 |
この頃まで、四つ太鼓は「サッサ・ハリショ」などの囃子で運行していたものが、現在の道中伊勢 音頭に変更される。なお、この頃までは伊勢音頭は休憩中などに唄われていた。 |
昭和2年
(1927年) |
国勢調査等の影響により、祭礼の日付が現在の10月4日・5日と変更される。
(ただし、この後も何度か日付の変遷を経ており、昭和29年から変更されていない) |
昭和10年
(1935年) |
この頃、四つ太鼓の「川渡御」が中止される。
(喧嘩等の影響で本祭での四つ太鼓の使用を禁止された。昭和30年まで本祭における四つ太鼓は中絶。) |
戦中 |
戦争の影響で、祭が中断される。 |
昭和28年
(1953年) |
7.18紀州大水害。名屋組の屋台等が流失するなど、被害を受け神前式のみ執行 |
昭和30年
(1955年) |
この頃より、現在の神社宮入形式での祭りが始まる。本祭での四つ太鼓使用を再開。 名屋組・春日組・島組が四つ太鼓を製造する。当時の宮入の順はクジで決められていた。 また、「若衆頭連合会(若連)」が形成され、本町・中町筋での合同行進が始まる。 |
この時、「中組」「濱之瀬組」「下組」「御坊町」「紀小竹組」「名屋組」「東薗組」「春日組」「島組」「上組」の順となる。 |
昭和36年
(1961年) |
第二室戸台風来襲。御坊市も壊滅的な被害を受け、祭が中止される。 |
昭和40年
(1965年) |
春日組が神振行事への参加を中絶し、後に島組も神振行事への参加を中絶する。また、この 頃より宮入順が宮本「中組」が一番、御輿副「上組」が最終組と固定され、残りはクジによる抽 選を行い、宮入順を決定するようになった。 |
昭和45年
(1970年) |
東薗組が子供四つ太鼓を製造し、祭礼に参加する。 |
昭和52年
(1977年) |
遷宮参百周年記念祭。例年以上に盛大に行われる。 この年より御坊町と紀小竹組が入れ替わり、宮入の順が現在の正式の順番に固定される。 |
この時、「中組」「濱之瀬組」「下組」「紀小竹組」「御坊町」「名屋組」「東薗組」「春日組」「島組」「上組」の順となる。 |
昭和55年
(1980年) |
東薗組の子供四つ太鼓が中絶。 |
昭和61年
(1986年) |
濱之瀬組の子供奴踊りが復活、下組が三味線弾きの理由で雀踊り奉納を辞退。 |
昭和62年
(1987年) |
一番宮入の前に、中組・濱之瀬組・紀小竹組・東薗組・上組の子供四つ太鼓が同時宮入。
(なお、東薗組の子供四つ太鼓は、この年だけ復活する形となった) |
昭和63年
(1988年) |
昭和天皇のご容態が悪化、祭が中止される。
(「そんな時こそ祭りをして天皇陛下を元気付けなければ」という意見と対立し、賛否両論の中での中止となった) |
平成13年
(2001年) |
濱之瀬組の子供四つ太鼓、奴踊り奉納が中絶。 |
平成14年
(2002年) |
若連行事が本町・中町筋商店街より4車線道路(通称:18m道路)に変更される。 東薗組の子供四つ太鼓が復活する。 |
平成16年
(2004年) |
春日組が組印を「向かい雀」に改め、祭礼に復活参加する。(この年だけ東薗組と宮入順番を入替え) |
平成26年
(2014年) |
小竹八幡神社境内で奉納されていた戯瓢踊のお旅所奉納が復活。昭和初期以来か。 |
平成27年
(2015年) |
小竹八幡神社境内で奉納されていた下組雀踊りのお旅所奉納が復活。 |
平成29年
(2017年) |
下組雀踊りのお旅所奉納が、小竹八幡神社境内での奉納に戻る。 |
令和2年
(2020年) |
新型コロナウイルス(COVID-19)流行により全氏子組の奉納が中止。神事のみ実施。
(昭和63年以来32年ぶりの中止。疫病が原因の中止は明治以降では例がないと思われる)。 |
令和3年
(2021年) |
新型コロナウイルス(COVID-19)流行により全氏子組の奉納が中止。神事のみ実施。 |
令和4年
(2022年) |
新型コロナウイルス(COVID-19)流行により全氏子組の奉納が中止。神事のみ実施。
(三年ぶりに御輿を出して御輿渡御を実施した。)。 |
令和5年
(2023年) |
4年ぶりに通常通りの祭礼が執行される。 |